「日照り雨」その日は雨が降っていたが、日も照っていた。 こんな日は狐の嫁入りが行われる不思議な日だ。 でもそれは決して見てはいけない。 五歳位の“私”(中野聡彦)は母(倍賞美津子)に見てはいけないと言われていた狐の嫁入りを見てしまう。 家に帰ると母が恐い顔をして立っていた。 狐が来て怒っていた、腹を切って謝れと言ってたという。 一生懸命、死ぬ気になって謝って来なさいと母は言った・・・
「桃畑」桃の節句の日、少年時代の“私”(伊崎充則)は不思議な少女<桃の精>(建みさと)を見る。 少女を追って裏の桃の段々畑に出ると、人間と同じ雛人形が集まっていた。 雛人形たちは桃の木を切り倒した“私”の家には行かないと言った。 だが、ひとりの女雛が桃の木が切られるときに“私”は泣いてくれたということで、大勢の雛人形が舞を舞って、桃の花盛りを見せてくれた。・・・
「雪あらし」“私”(寺尾聰)たち四人のパーティは、雪山登山中に猛吹雪に遭遇し、視界ゼロの雪渓に迷い、次第に一人ひとり倒れ、睡魔に襲われる。 そして自分のだんだん眠くなってきたとき、眠りの中の夢か、幻覚か、吹雪の中から美女が現われ、みるみる鬼女に変わっていく・・・
「トンネル」“私”は陸軍中隊長で、ひとりだけ戦争から生還してきた。 トンネルの入口に手榴弾を背負った赤い犬がいる。 犬は“私”に向かって怒り吠えていた。 明らかに敵意を持っている感じだった。 長いトンネルを抜けたとき、そのトンネルの中から戦死したはずの野口一等兵(頭師佳孝)が現われる。 彼は目の周りが黒く明らかな死人の顔だった。 野口は自分の死が納得出来ず、この世をさ迷っていたのだ。 さらに続いて全滅したはずの第三小隊の隊列までも“私”の前に現われた・・・
「鴉」画学生の“私”は、展覧会場に飾られたゴッホの絵に魅せられているうちに、気付くと「アルルのはね橋」の絵の中を歩いていた。 “私”は絵の中でゴッホ(マーティン・スコセッシ)と出会う。 彼は自画像を描いていたらしいがなぜか包帯を顔にしている。 耳が気に入らなかったので、自分の耳を切ってしまったというのだった…
「赤富士」富士山が真っ赤に溶けていく。 遂に原発が爆発したからだった。 逃げまどう群衆。大地が、波が震動し荒れ狂う。 “私”はただ絶望的に赤い霧の中で抵抗した。 新しい技術で誰もが見えるように放射能に色を付けていたのだった。 そこへ一人の男(井川比佐志)が現われる…
「鬼哭」遂に地球も滅びようとしている。 生きているものは何一つない。だが“私”の前に異様な男(いかりや長介)が現われる。 それは鬼だった。 この鬼たちは飢餓に悩まされている。 食べ物がないから弱肉強食のように共食いをしているのだった。 1本の角の鬼は一番弱いらしい。 彼は人間の時は落語家だったと言い出す…
「水車のある村」新緑に抱まれた自然の豊かな村。 子供たちが元気に遊んでいく。 そしてこちらに挨拶をしてくるしばらく歩くと一人の老人(笠智衆)に出会う。 歳は百三歳になるという。そしてその老人と話し込み始めるのだった…
この作品は何回も見ていますね。 晩年の作品で、後ろから3作目という事で、今から25年前になるんですね。
主人公の大人の“私”は、一貫して寺尾聰が演じています。 子供のころに見た夢、そして学生の時に見た夢? そしてさまざまなところに行ったときに見た夢。
そんな夢のお話に引っ掛けた、黒澤監督の晩年のメッセージ色の強いファンタジー作品です。 子供の時のお話は自然との触れ合いを描いている感じのお話ですが、ちょっと妖怪色もあり、物の怪との交流っぽいですね。
雪山のところも、自然の猛威の中で見た幻、生還したからこそのお話です。
トンネルと鴉は、青年期の行動記録で、戦争の辛い記憶と、反転して海外での癒しを描いた作風に見えます。
赤富士で描かれている、放射能に色を付けてわかるようにするのはいい考えですが、裏を返せばそれは恐怖が見えてしまうという恐ろしい現象を端的に表しています。
監督に言いたいことは最後のお話で、笠智衆さんが言っていることがすべてでしょう。 何度見てもこの作品はずしんと来ます。