錠者博美(青木健)は台湾を列車で南に移動している。 1944年、日本の戦局は悪化しているのだが、それを口に出してはいけない。 台湾は日本に日清戦争後併合され、ここでも日本の勝利を願う旗がそこかしこにたなびいている。
彼は部下に、「嘉儀に着いたら起こしてくれ」と言い、少し眠ることにした。 彼の荷物には野球のボールが入っていた。
1931年、1929年に誕生した日本人、台湾人(漢人)、台湾原住民による嘉義農林野球部は今まで一度も勝ったことの無いチームだった。 練習も何か遊んでいるような感じだが、そこに通りかかった、風呂屋帰りの男は苦い表情をしていた。
濱田次箕(吉岡そんれい)は近藤兵太郎(永瀬正敏)を嘉儀農林の監督に必死に誘っていた。 彼は本土で野球をしていた。 初めは渋っていたが、彼は嘉儀農林の民族混成チームに惹かれ、監督を引き受ける決心をした。
しかし彼の練習は厳しいものだった。 はやくも彼はまず嘉儀市内ランニングで1週を部員に課した。 そして走るときに“甲子園”と言いながら走ることも義務づけた。 いきなりの猛練習に、嘔吐する者も出てくる。 街中からは変な目で見られてもいた。
近藤は、松山商出身で、甲子園の常連チームで鍛えられていた。 そして指導者になったのだが、彼の指導は、ただ前へ進むことしか許さない妥協のない教え方だった。 そして彼は壁にぶち当たり野球部から去ったのである。
のんびりしたチームだった嘉農野球部は、近藤の鬼のような特訓を1年間続ける中、連敗続きの野球部員も次第に勝利への強い意志が沸き出してきた。 そんなある日、台湾に集中豪雨が襲った。 練習は中止になり、たまの休日になったので、野球部員は映画に行こうということになった。 しかし同じようなことを考え、嘉儀中野球部も見に来ていた。 後ろから押した、押さないで喧嘩になってしまった両校。
その日、近藤は必死に行きたくない宴席に出席をしていた。 しかしそれは野球部に対する部費の援助のためだった。
しかし市民代表の男(渋谷天馬)に混成チームをバカにされ、彼は酒量が上がり、泥酔して田んぼで一夜を明かしてしまう。
泥だらけで家に帰ると、妻のカナエ(坂井真紀)が心配して待っていたが、部員たちも手分けをして監督を探していたことを聞く。 しかし部員たちの顔の傷を見て、暴力をした者たちを叱り、決着は野球でつけろと言い放つのだった。
そして始まった嘉儀中との戦い、以前は大差で負けるだけだった嘉儀農林は、驚くべき善戦を見せた。 1点差で終盤に入った時、突然の集中豪雨、試合は続行不能となった。 エースとキャッチャーはこれが最後の試合だったが、惜しくも敗戦となった。 しかしチームは驚くべき成長をしていたのだった…
大変評価の高い作品、何とか足を伸ばして観てきました。 会場はいっぱいでしたね。 そのシネコンは1回上映ですから、年配の人を中心にご夫婦が多かったですね。
野球映画で女性が号泣しているのは珍しい? 私はそこに多少の驚きがありました。
嘉儀農林という台湾のチームがあったことは、昔甲子園大会の本を読んだことがあったので、昔強かった中京商業の項で読んだことがありました。 今は日本ではない台湾のチームが決勝戦まで勝ち上がった。 そういう記述がありました。
しかし、まだ中学生くらいでしたから、その歴史背景、そういう構成だったのかまでは全く知りませんでした。
昨年末から、野球映画の公開が続いていますが、各々コンセプトが違います。 また甲子園を取り上げた作品は、「アゲイン 28年目の甲子園 」http://blogs.yahoo.co.jp/atts1964/12640574.html がついこの前公開され今も公開中ですが、これもまた甲子園を目指し、そして頂点を目指した映画です。
驚いたのは嘉儀農林が、弱小チームだったことですね。 1923年から、1941年まで台湾の代表チームが甲子園に行きました。 残念ながら1941年は戦局悪化のため甲子園大会自体が中止となりましたが、決勝まで進んだのはこの嘉儀農林のみですね。
見終わった後、よくこの作品を作ってくれたと感謝の念が湧いてきました。今でも親日の台湾、私も一度行ったことがありますが、古き良き日本がいろんなところに残っている“国”でした。 私は出会いませんでしたが、妻は統治時代の日本を知っているおじいさんに会い、歌を歌ってくれたそうです。
政治的に表立って交流ができない日本と台湾、でももっと親密になりたい国ですし、野球を通じて何らかの交流をしたいもんですね。
野球に詳しくない人にも、これは見てほしい作品でした。
鬼監督の近藤
台湾に大きな功績を遺した八田興一
家での近藤
エースとなる呉
幼馴染の女の子と